スイカとブルーベリー
岩手県の県庁所在地、盛岡市の隣にある滝沢市。
またくるファーム代表の小森彰宏さんへ会いに待ち合わせ場所へ。
待ち合わせ場所へと近づくにつれ、りんごの木がたくさん道路脇に立ち並んでいる。
車を走らせながら見るその景観は、見事であった。
待ち合わせ場所に着くと、小森さんが出迎えてくれる。
「わざわざ来てくれてありがとうございます!中へどうぞ!」
そう言って迎えてくれた小森さんの出で立ちは、『新時代の農家』という雰囲気を醸し出していた。
目の前に立ち並ぶ、リンゴの木について聞くと、
「あれは、両親が育てているリンゴです、自分はスイカとブルーベリーを育てています」
その一言で、小森さんに対する興味が強くなっていった。
「両親が果樹園でリンゴと梨を中心に農家やっていますが、私は新規就農で、ブルーベリーとスイカを別の畑でやっていますよ」
ご両親の果樹園を継いだ訳ではなく、新規就農として、小森さんはスタートを切っている。
ますます興味を持ってしまった。

農家から一番遠い存在へ
「小さい頃からテレビ画面に映る人達が楽しそうだなと思って見ていたので、憧れを持っていましたね」
小森さんは高校卒業後、盛岡市内の専門学校へと通う。
専門学校卒業後は、東京に知人の元に転がり込み、東京での生活をスタートさせた。
「本当は高校卒業してすぐ、東京に行きたかったんですけど、親が専門学校に行けば、そのまま地元に残ってくれると思ったんでしょうね(笑)」
東京へ行き、「芸能人」になることを目指したのだ。
東京へ行くと、芸能事務所に入り、アルバイトの掛け持ちで生計を立てていた。
「その事務所には、某有名俳優さんが在籍していました。その俳優さんは当時、仮面ライダーの仕事をしていましたので、自分達も格闘の練習とかしてましたよ(笑)」
なぜ芸能人を目指したのか・・・
「小さい頃から親の姿を見ていて農家の大変さを分かっていましたから、違う仕事をして、農家になる選択肢を無くしたかったんです、当時はその想いが強かったですね」
小森さんは、毎日見ているご両親の「農家」という姿から、遠くかけ離れた存在になろうと考えていたのだ。
「東京では、仕事をしながら、オーディションを受けに行っていましたね」
そんな東京での日々を送る中、アクシデントに見舞われる。
「階段から足を踏み外して、骨折したんですよ!」
雨の日の夜、階段で足を滑らせ、足首を骨折してしまう。
「松葉杖で歩く状態になりましたので、全く仕事に行けなくなりました」
体を使う仕事だったので、骨折により、小森さんの収入が途絶えてしまった。
もちろん、オーディションにも行けない状況となったのだ。
「収入もなく、何も出来ない状況になってしまったので、しばらくどうしようかと悩みましたね」
芸能事務所に通い、オーディションを受けながらアルバイトをしていた為、その日暮らしだった小森さんは、東京のアパートを引き払い、実家へ戻る事を決意する。
『足首骨折』というひょんなことから、小森さんは実家へ戻ることとなった。
東京での生活、芸能人を目指す夢は、一旦ここで、終止符が打たれたのだ。
小森さんはこの時、24歳である。

仙台で味わった挫折
足を骨折したまま、東京から帰って来た小森さん。
足が完治すると、地元のガソリンスタンドで働くようになる。
「その時、社会の厳しさを学びました。初めて自分の甘さに気付きましたね」
仕事をすることの意味、社会人としてのルール、小森さんはこの仕事で学び、今までの自分を見つめ直したのだ。
ガソリンスタンドで働き始めて2年、小森さんはある想いを抱くようになる。
「やっぱり有名人になりたいという願望が芽生えてきて、人が多く集まっている場所に行きたいと思い始めました」
東京から帰って来て2年。
小森さんは、再び動き出す。
ご両親へ『仙台に行く』と告げる。
「親に仙台へ行くと告げると、30歳までに戻って来いって言われました((笑)」
この仙台行きには、小森さんに考えがあるものだった。
「当時のSNSで、様々な社長達から、今後についてアドバイスをもらっていました。それで仙台に行こうと決めたんです!」
小森さんの言う「有名人」には意味があったのだ。
「成功している人からのアドバイスもあり、人を集める能力があれば、これからの時代、農家でもやっていけるだろうと考えていましたね」
当時、頭の中には「農家」という言葉があったのだという。
小森さんは仙台へ行くと、派遣会社に勤めながら、SNSを使い、交流会などのイベントを手掛けるようになる。
『人を集める』ことへの能力を発揮し、小森さんが企画する交流会などは、100人以上の人が集まるようになったのだ。
「イベントを企画することが好きでしたから、人を集める交流会などは順調に大きくなっていきましたよ、収入も徐々に増えていきましたので!」
イベントを企画することに時間を割くようになり、派遣会社を退職する。
そして、順調に進む『人を集める』ことで起業を考えていた。
しかし、その想いは届かなかったのだ。
「事業を起こそうと準備していたのですが、仲間から騙されてしまい、借金を背負ってしまいました、しまいには車で事故を起こしてしまって。。。」
騙されて借金を背負った上に、車での事故を起こしてしまう。
アパートの電気・ガスが止められるほどの状況となり、小森さんは何も身動きが取れなくなってしまった。
小森さんは、仙台の地で、『挫折』を初めて味わうのである。
この時、30歳。
小森さんは、ご両親に土下座をし、借金の肩代わりをしてもらう。
そして、再び、実家へ帰ることとなる。
『人を集めること』という経験と、『挫折』という荷物を抱えて・・

若手農家からの刺激
仙台から帰って来ると、実家の農業を手伝いようになる。
「実家に帰って来てから、本気で農業をやろうとは、正直まだ思っていませんでしたね」
実家の手伝いをするが、気持ちが農業へまだ向いていなかったという。
しかし、滝沢市の『農村青年クラブ』へ入会することにより、小森さんの気持ちが大きく変わる。
「先輩から誘われて、若手の農家が集まる『農村青年クラブ』に入会することになったんですよ、そしたら会長に指名されて、ビックリしましたよ」
小森さんは、滝沢市の農村青年クラブの会長に就任する。
「前任の会長に、好きなように活動していいよって言われたので、面白いことを何でもやってみようと思いました。若い農家さんのも多かったので、みんなで話し合って活動をし始めました」
当時の農村青年クラブは十数名で、異業種から新規就農した若手農家も多かった。
「とりあえず、人を集めようということで、農村青年クラブの運営資金を使い、会員数を増やしていきました」
小森さんの「企画力」が、発揮される。
「会員を増やしたかったので、みんなで話し合い、親しみやすい名前に変えました(笑)」
このような理由で、『滝沢グリーンワークス』と改名する。
会員数は徐々に増えていき、三十数名までになった。
「今まで農村青年クラブがやっていなかった新しい企画をたくさんやってきました、会長を就任中に全国青年農業者会議で、農林水産大臣賞をもらうことが出来ましたよ」
小森さんは、滝沢グリーンワークスの会長として、最高のパフォーマンスを見せる。
「何より、若手農家さんと活動していく中で、たくさんの刺激を受けました、農家に対しての考え方が変わりましたね」
この活動を通して、「農家」になる決意をしたのだ。

ブルーベリーとの出会い、そして新規就農
愛知県岡崎市に『ブルーベリーファームおかざき』がある。
そこでの栽培方法が『アクア養液灌水ポット栽培』。
『鉢で育てるブルーベリー』として、観光農園を営んでいる。
小森さんはその農法を取り入れたブルーベリー栽培で新規就農を考えた。
新規就農には大きな理由があった。
「実は葛藤がありました、グリーンワークスの仲間達は新規就農で頑張っているのに、自分は実家の農業を手伝っていることに。ゼロからスタートする大変さを経験しないとダメだと、ずっと思っていました」
ブルーベリー栽培での新規就農を計画する。
しかし、そこには大きな壁が立ちふさがった。
新規就農を申請する際、ブルーベリー栽培の新しい取り組みだった為、自治体に新規就農が認められなかったのだ。
「新しい取り組みでしたので、前例がないからといって認めてもらえませんでした。とても悔しい思いをしましたね」
小森さんは、それでも諦めなかった。
スイカ栽培とブルーベリー栽培を一緒にやる計画を立て、再度申請したのだ。
滝沢市の特産品にもなっている『滝沢スイカ』。
スイカ栽培については、岩手県内に実績があったため、スイカ栽培とブルーベリー栽培を一緒に育てることで、新規就農として認められたのだ。
小森さんはこれで、『ブルーベリー』と『スイカ』の農家となったのだ。

楽しませる農家
「農家として、美味しいものを育てるのはもちろんですが、食べる人、買ってくれる人達を楽しませることを目指していきたいです、他の人がやらないことに、挑戦出来ればと思います」
小森さんの破天荒な経歴が、この一言に物語っている。
農業を通して、人を集め、楽しませる企画を考える。
「先日、子供が通う保育園にブルーベリーの鉢を持って行って、園児たちに食べてもらいました、とっても喜んでましたよ」
小森さんは、とてもいい笑顔で話してくれた。

